私の研究テーマは知覚と運動の脳メカニズムを理解することである.別のページにも書いたように,私はヒトの運動制御の最大の特徴はその多自由度性と学習能力にあると信じている.だからこそ,これに即した研究を行ないたいと思っている.しかし,ここからが問題である.「やりたいこと」と「できること」は違うということである.
私も科学者の端くれであるから,科学を行なうには「科学の手順」を踏む必要があることは理解している.科学においては「実験結果から論理的に類推できること」や「現象が再現できること」が重視される.これらの条件は,物理現象といわれるものについては充たすことができるが,ヒトの運動研究については,ヒトの特徴である多自由度性と学習性ゆえにこれらの条件を厳密に充たすことは不可能である.
例えば,ヒトは同じ運動を二度と繰り返すことができない.これは運動のばらつきと呼ばれ,あたかもベースとなる現象にノイズがのったかのように取り扱われることも多いが,個人的には,運動のばらつきは運動を行なうたびに脳の中の状態が更新されるため(つまり履歴が残るため)であると考えている.これは,ヒトはある経験をすればその次はそれ以前の自分とは違っているということであり,そもそもヒトの行動は「再現」しえないものであるといえる.それにもかかわらず,科学をするためには,試行を繰り返して統計処理を行ない,ベースとなると考えられる現象を取り出す作業をすることになる.現状ではそうするしかないのであるが,「これを続けていてよいのであろうか」という考えが頭をよぎる.
ヒトの身体は個人ごとに形も大きさも違い,筋の性質も違うわけであるから,異なる個人が異なる方式で運動を行なうことには何ら不思議なことはない.にも関わらず,科学の研究では,多数の被験者を集めて統計処理によって個人差を押し潰し,そこに特徴を見出そうとする.もしかしたら,統計処理によって押しつぶされてしまった個人差にこそ,その個人の制御の特性が含まれているかもしれないのに,である.
ほかにもある.例えば,目標物まで手を伸ばす
身体を扱う仕事をする非研究者の方から「科学で人間や脳のことなどわかるはずがない」といった痛切な皮肉を言われることがしばしばある(私も直接言われたことがある)が,上のようなことを考えれば,これは決して「素人の批判」などではなく,それこそが真実であると思う.