いまや理系学生の多くが大学院の修士課程に進むようになり,多くの人がほとんど無条件に大学院に進学することを考えていることでしょう.巷には「修士課程を出ていないと会社に入ってから希望する職種につけない」という噂も流れていますから,みなが大学院進学を望むのも無理はありません.
もちろん,私も研究活動を続けたいのであれば大学院に進学することを勧めます.ただ,それを決める前に一度は「本当に大学院に進学してよいのか」を考えてもらいたいとも思います.
大学院で習得すべき基本的な技能は「研究作業を進めていくための基盤的な能力」だと思います.これは,「特定の分野の知識」といった問題や課題に直結した能力ではなくて,「どのような問題に接したとしてもそれを解決する方法を編み出せる」というメタな能力です.問題の発見,論文の調査,実験や開発の計画,作業の遂行,データの解析,結果の評価,結論の導出といった研究の一連のプロセスを経験して,これを(可能であれば一人で)実行できる能力ということです.修士論文では,どのような問題を扱うにせよ,必ずこういったステップを踏みますし,それを身に着けることが重要なわけです.
以前(といっても20-30年前ですが),タモリ倶楽部という番組に,国語辞典の編纂に関わるような有名な国語学者が出演したときがありました.その学者がタモリ氏からある質問を受けて「それは調べてみないとわからない」と答えたところ,タモリ氏が「学者でもわからないことがあるのですね」といった趣旨のコメントをしたのですが,それに対してその学者がいったことは「自分はなんでも知っているわけではない.自分が知っているのはわからない問題があったときにそれを解決する方法である」といった趣旨の答えをしていたのを聞いて「なるほど」と思ったことをよく覚えています.大学院で身に着ける能力とはそういうものです.
世の中の技術は時代の流れとともに大きく変化します.今の時代で最先端であっても数年もたてばそれは当たり前のものになります.会社に入れば,入社したころにやっていた仕事の内容と30-40代の中堅・幹部になってからの仕事の内容は大きく変わるでしょう.そのように仕事の内容が変わってもいつでもそれに対応できることが重要なのではないでしょうか.
以上では大学院で学ぶべきことを書いてきましたが,次に,大学院に進んだ場合のデメリット(逆にいえば,大学院に進まずにすぐに就職した方が良い面)についていくつか書いておきたいと思います.
まず,修士課程の2年間には学費を200万円以上負担することになります.就職すれば,その負担はなく逆に2年分の給料が入ってきます.この差は1000万円近くなるのではないでしょうか.これは決して少ない金額ではありません.修士課程を出れば職種が違うので入社してからの待遇が違ってくると思うかもしれませんが,1000万円の差を取り返すにはそれなりの時間がかかるでしょう.
それよりも重要なことは,早くから会社での仕事の仕方を学ぶことができるということです.会社と大学の大きな違いは組織として仕事をするかどうかです.研究室はいってみれば個人商店のようなものなので,多人数で大規模な仕事を回していくという経験をすることはできません.また,大企業では予算規模も大学研究室とはまったく違います.大規模な装置を使わないと研究や製造ができない業種においては,大学にいては決して経験できない仕事を早くから経験できることでしょう.私は大学から出たことがないので実体はわかりませんが,20代前半という吸収力が大きな2年間にそのような仕事に触れられる経験はおそらく貴重なものになるだろうと思います.
まだほかにもありますが,大学院に進学するかどうかを決めるときは,いったんじっくりと考えるのがよいだろうと思います.