手と腕の姿勢

今回は,ピアノを演奏する際の手と腕の姿勢について考えてみる.ただ,「姿勢」といっても「形としての姿勢」ではなくて「鍵盤と力のやり取りしている動作を含めた姿勢」である.

NHKの名曲アルバムプラスという番組に,リスト作曲の「鐘(ラ・カンパネラ)」を弾いているピアニストの指の動きをアート作品として仕上げたものがある.この映像はピアニストの腕や手,指の動きを観察するのに格好の題材である(いまの時代,you tube を探せば一流ピアニストたちの演奏の様子はいくらでも鑑賞できるが,手や指の動きを追いかけるという意味ではこの作品は格別である).私の研究室では,以前ピアニストの手の動きを追跡しながら高速度カメラで手の動きを撮影するシステムを構築したことがあるが,このシステムではカメラを天井に設置していたので,指の水平方向の動きしか観察することができなかった.これに対して,このNHKの作品ではピアニストの手の動きをピアニストの正面から撮影しているので,手の上下方向の動きがよくわかる.

この作品を見ていると,現代のピアニストは,私が子供の頃に習った「手指を卵を包むような形にして」弾いていないことがよくわかる.実際,ピアニストの人たちと話をしていると,卵を包むような形で弾く「ハイフィンガー奏法」は現代では廃れているそうである(ちまたのピアノ教室ではいまだにハイフィンガー奏法で教えているところがあるので要注意とのことだった).ハイフィンガー奏法というのは,指の2番目の関節(近位指節間関節:PIP関節)を曲げたたま指の根元の関節(中手指節関節:MP関節)を伸展させて指を高くあげ,それを下に振り下ろすことで鍵盤を叩く奏法である.誤解を恐れずに大胆にいってしまえば,指の力で弾く奏法であるといってよい.これに対して,作品で見られる演奏では,指をゆるやかに湾曲した姿勢にして弾いている場面がほとんどである.先日お話しを聞いた音大の先生も,指を伸ばした状態に近い姿勢で弾くとお話しされていた.

それでは,なぜ現代のピアニストは指をこのような関節をほぼ伸ばした姿勢で弾くのであろうか.それは,おそらく,鍵盤を叩く際に手や指の細い筋を使わずに腕や肩の大きな筋を動員するためということになろう.

筆者には,子供のころに習った「指の力で弾く」奏法が染みついていたので,「腕の重さや肩の力で弾く」という奏法を本や論文で読んでも,それを自分の体感として感じることがなかなかできなかった.しかし,つい先日,ある音大の先生からちょっとしたヒントをもらったことがきっかけになって,それまで本で読んだ「知識」でしかなかった手・腕・肩の使い方が頭の中で融合して,その意味が実感できるようになった.実際,そういう弾き方をしてみると,以前の弾き方に比べて,明らかに指が回り,大きな音が楽に出せるのである.この変化は,私のピアノ演奏人生(?)の中で最大級の変化である(この数十年のあいだいったい何をやっていたのだろうという気分である).ちなみに,その音大の先生からはピアノを前にしてレッスンを受けたわけではなく,居酒屋でビールを飲みながら演奏に関する談義をしていただけである.重要なきっかけは思わぬところから降ってくるものである.

一つ例をあげてみたい.指をやや伸ばした姿勢で鍵盤を押そうとすると,指を卵型にするときに比べて,基本姿勢(準備状態)における手の甲や手首の高さを高く保つことになる.こうすると,まず腕の重さや腕の力を指に伝えやすくなる(指がつながるというか,力が伝わるというか,そういう印象である).腕の重さや力をそのまま鍵盤に預ければ,指のレベルで力を出さなくても大きな力を鍵盤に伝えることができるようになる.

別の例として,指先が鍵盤に軽く触れている状態から大きな音を出そう(鍵盤を強く押そう)とするときを考えてみよう.こういう状況では,指の力だけで大きな力を出すことは難しいので,腕の力を使う必要がある.ただ,これまでは「鍵盤を上から叩く」イメージでしか考えてこなかったので,「指が鍵盤に触れている状態から強く鍵盤を押す」という感覚をうまく理解することができなかった.しかし,これを「手や腕が鍵盤から力をもらって上に跳び上がる」というイメージで考えるようにすると,より大きな音が楽に出せるようになる.「作用反作用の法則」を考えれば,「腕が鍵盤から上向きの力をもらって跳び上がる」ときには,「鍵盤はそれと同じ大きさの力を下向きに受ける」ことになる.したがって,鍵盤に大きな力を与えたければ,手や腕ができるだけ速く上に跳び上がるようにすればよい.ただし,このとき,腕を自分の筋力で「持ち上げて」しまっては鍵盤には何の力も伝わらない.あくまで,手や腕が鍵盤を踏み台としてそこから跳び上がるような感覚で腕を上に持ち上げなくてはいけない.

このように,「鍵盤から手が跳び上がる」という感覚で腕を使うことにより,腕の質量を使って鍵盤を押すという感覚がより明確に理解できるようになる.というのも,跳び上がる速度が同じであれば,跳び上がるものの質量が大きければ大きいほど,踏み台にかかる力は大きくなるから,「手を跳び上がらせる」のではなく「腕を跳び上がらせる」ことによって,腕の重さを使えるようになる,ということが実感できるのである.このようにして腕を使って打鍵したときに鍵盤にかかる力の大きさは,手指の筋肉だけで鍵盤を上から叩いて打鍵したときにかかる力の比ではない.いずれにしても,鍵盤を叩く運動を「指の運動」として捉えるのではなく「腕の運動」として捉えることで,鍵盤に対して大きな力を作用させることができ,結果として大きな音が出せるようになる.

なお,このときの腕の動きは,前腕が垂直に上がるというよりは,肩関節が内旋しつつ外転・屈曲して肘が両側に開くようにして上がる方が楽な動きになる感じがする.結局のところ,大きな音を出すためのカギは,肩関節を急速に外転させて肘を持ち上げるような腕の使い方ということになるのではないだろうか.そうなると,重要なのは三角筋や棘上筋,さらには大胸筋といった肩周りの筋の働きであるということになる.

このとき,さらに,指の根元の関節(MP関節)を屈曲させるような力を加えると,指が鍵盤から跳び上がる効果がいっそう大きくなる.実際,NHKの名曲アルバムプラスの作品を眺めていると,手が鍵盤から跳躍するように動く場面が多くみられる.この場面をよく観察すると,指の根元の関節(MP関節)を屈曲する方向に手をすぼめるような方向に力を作用させることで,鍵盤に力を与えている(逆に鍵盤から力をもらって跳び上がっている)様子がわかる.ピアノを弾かない人でも,机の上に5本の指を立てた状態から急速に手をすぼめれば,自然と手が上に跳び上がることはすぐに確かめられるだろう.

ほかの原稿に書いたように,ピアノの発音において重要なのは,鍵盤を押し下げる打鍵時の速度だけである.このときにできるだけ効率よく打鍵するためには,鍵盤から跳び上がるようにして弾くのが最も合理的である.別の項目で触れる予定であるが,プロの演奏家は打鍵したあとに鍵盤を強く押し続けることはせずに,最小限の力で鍵盤を押し下げた状態をキープしている.一方,アマチュアの演奏家には,打鍵動作が終わったあとも必要以上に強い力で鍵盤を押し続けている人が多いらしい.この違いは「打鍵動作終了後の指の処理の違い」によるものと解釈するのが一般的であるが,個人的にはむしろ「打鍵動作そのものの捉え方の違い」に起因するものではないかと思う.というのも,初級者・中級者の多くは,打鍵動作を「鍵盤を押す動作」だと考えていて「鍵盤を押したあと指はその押した状態でとどまっている」のに対して,上級者は打鍵動作を「鍵盤から跳躍する動作」と考えていて「打鍵後は手が跳躍して基本姿勢に戻った体制で鍵盤に指を預けている」のではないであろうか.跳躍だと考えれば,指が下向きに押す力に上に飛び上がる際の反力も鍵盤に与えることができるので,より効率的に力を使えるのである.

物理が好きな人は,「球が床に衝突する問題」と対比させればわかりやすいかもしれない.球が床に衝突して反発する場合,床が受け取る力積の大きさは,球が床に衝突したときの運動量の大きさと反発した直後の運動量の大きさをたしたものになる.したがって,球が強く反発するほど床が受け取る力積は大きくなり,逆に,床に衝突したあと球が床に張り付いてしまうと床が受け取る力積は最小になる.この議論の「床」を「鍵盤」,「球」を「指」だと思えば,打鍵したあとに鍵盤に張り付いてしまうと,鍵盤に与える力積が小さくなってしまうことがわかるだろう.逆に,鍵盤に張り付くのではなくて反発すればその分だけ鍵盤に与える力積が大きくなる.

さて,指を伸ばし気味にして使うと手の位置が高くなることを先に述べたが,手の位置を高く保つことには,前腕の回内・回外運動による手首の回転運動がやりやすくなるという効用もあるように思う.ドとソの音を繰り返して弾くような場面やトリルの場面では二つの指で交互に打鍵することになるが,繰り返しの周期が短くなる(動きが速くなる)とこの動作を指の動きだけで行なうことは難しくなり,手自体を回転(回内・回外運動)させて使うことになる.このような手の回転運動による技法はシャンドールの本に明確にかいてあるが,プロのピアニストがアマチュアピアニストに比べて回転運動をうまく使えることは実験的にも示されている.筆者は,手の回転運動が重要であることはこれらの文献を読んで以前から知っていたのであるが,実際の演奏ではなかなかそれがうまくできなかった.しかし,この問題は手の位置を高くすることでかなり解決してしまった.手の甲が高くなると,指を伸ばしたまま鍵盤に触れることになるが,この状態で手を左右に回転させれば自然に交互の運動ができるようになる.

このようなことを考えると,ピアニストの自分の身体をうまく遣う上で,手や腕の姿勢が物理的にも解剖学的にも合理的な体勢になっているかどうかを確認することが重要であると思えてくる.「ピアノ教育の現場はいまだに経験主義的で科学的観点での考察が抜け落ちている」という指摘をピアノ演奏関係者からよく耳にするところである.ただ,個人的には,「自然科学」と呼ぶほどの厳密な検討をしなくても,高校あるいは大学初級レベルの物理学(力学)の考え方と,人間の身体の基本的な解剖学(筋骨格系のつくり)の知識があれば,ピアノ演奏を合理的に行なうための土台知識を十分に得られるのではないかと思う.

本稿で書いてきたように,筆者はそういうことを「知識」としてはもっていたが,それを実感として捉えるところまでいっていなかった.そのようなことから,個人的には,そのような知識を「知識」として持っていることよりも,むしろ,それを自分の身体感覚として実感することの方が難しく,また,重要であると思っている.つまり,技能の習得という目的では,精密な科学を理解することよりも,客観的・科学的な事実と自分の主観的・感覚的・認知的理解とを整合させながら練習するメソッドを組み立てる方が大事なのではないか.技能が向上するのは,知識と身体感覚のあいだに整合がとれたときであるとい ってよい.


Last-modified: 2019-10-22 (火) 11:13:15