原理・理論レベルでの課題

身体技能とコミュニケーション

身体技能の遂行や習得においてコミュニケーションの問題はいろいろな意味が本質的です.

一つ目は触力覚を通じたコミュニケーションです.使い慣れた道具が自分の身体の一部のように感じられることは多くの人が経験することだと思います.このことは,外部にある(すなわち,他者である)物体が自己の一部として認識されることがあることを意味しています.逆に,武術では,「自分の身体の一部を自分の身体だと思わない」で技を行なうことが求められることがあります.これらの例からわかるように,人間(脳)にとって,自分の身体と外部の物体,あるいは自己と他者の関係性は動的に変化しうるものであると考えられます.

このような,脳と身体・道具との対話は,触力覚を通じたコミュニケーションとして捉えることができます.自分の身体,道具,他人の身体といった技能遂行の構成要素を「自己と他者の関係性」から検討することは,認知脳科学における重要な研究課題です.本ステーションでは,技能の実践者の感覚・知覚を調べるとともに,自己や他者のモデルについて計算論的観点から議論したいと考えています.

二つ目は視覚や聴覚を通じたコミュニケーションです.視覚を例にとれば,舞踊では,踊り手の踊りを視覚的に見ることでその動きを鑑賞します.つまり,身体の動きを視覚を通じて感じることで,その表情や美しさを感じ取るわけです.このとき,上手い踊り手と下手な踊り手の判別がだれでもできることからわかるように,その技能の習熟者でなくても技能の優劣を判断できることがあります.このことは,万人に共通する「上手さ」「美しさ」の評価基準があることを示唆しています.このように,感覚情報を通じて人間が身体技能の善し悪しを判断する仕組みも重要な研究課題です.

身体性に根ざした技能の理解

 人間の運動は,個々人が有する身体の性質の影響から逃れることができません.したがって,個人の身体特性にあわせて効果的な身体の使い方が異なるのは避けられないことだと考えられます.とはいえ,筋や骨格構造がもたらす制約を積極的に利用することで制御を単純化したり,小さな筋力やエネルギーで運動を実現したりするといった原理レベル(メタレベル)で,複数の個人に共通する制御の構造を理解することはできるはずです.  このように,身体や環境に内在する構造や特性(身体性)を踏まえて,身体技能がどのように実現されているかについて原理レベルでの検討と実証的検討を組み合わせてアプローチしたいと考えています.

技能の伝承・伝達・教育

高度技能をもつ職人の腕をいかにして後継者に伝承するかという問題は,機械加工の分野などをはじめとして古くから指摘されてきた(社会的)問題です.

職人の技能は職人一人一人の主観的感覚によって支えられていると想像できますが,この主観的感覚を他者にそのまま伝えることは不可能ですから,技術を伝承するためには,結局のところ,後継者の主観的感覚を高いレベルまで育てあげるしか方策はないと考えています.したがって,高度技能の習得には「知覚的学習」が不可欠であり,そのためには長期間の訓練は避けられません.

ただ,そうとはいっても,その長期間の訓練を効率的に進めるメタレベルの手段については検討の余地があるのではないでしょうか.実際,優れた教師は,学習者の状態を読み取って学習者の状態に応じた適切なアドバイスや練習課題を与えることにより技能習得を促進する役割を果たしているといえます.これは,技能習得において不可欠な試行錯誤プロセスを適切に誘導することにより,学習者が単独で練習するときに陥りやすい間違いや将来に悪影響をもたらす試みを排除しているためであると考えられます.このことから推察できるように,教師は,学習者の状態を正しく理解すると同時に,学習者の内部で何が起きているのかを推定しそれを好ましい方向に誘導するための手法を編み出すというきわめて高度・かつ知的な作業を行なっていると考えられます.

技能習得に向けての試行錯誤の過程や教師が学習者を支援する過程を,学習理論の観点から系統的に議論することができれば,技能の伝承・教育のプロセスの体系化するという大きな問題に対して有益な知見を与えるものと考えています.

個別の技能を対象とした課題

楽器演奏

本ステーションの構成員には自ら楽器を演奏する研究者が多いこともあり,楽器演奏は重要な研究テーマの一つと考えています.特に,大阪大学の木下博研究室ではこれまでにピアノ演奏やバイオリン演奏に関する研究を系統的に進めてきており,本ステーションではその研究をいっそう進展させたいと考えています.また,楽器演奏においては音響情報が技能の質を規定することから,聴覚系の特性も含めた演奏メカニズムについての研究も重要な研究テーマです.この問題に対しては本学の饗庭絵里子先生が取り組みます.

舞踊,バレエ

音楽が音響情報を媒体とする芸術であるのに対し,舞踊は視覚情報を媒体とする芸術であるといえます.舞踊家の身体の物理的動きは視覚情報に変換され,視覚の世界においてその優劣(動きの美しさ)が感じとられます.このように,舞踊は視覚を通じた動きの知覚という感覚的側面が重要であり,コミュニケーションという点で重要な研究対象であるといえます.

加えて,バレリーナにとっては「いかに筋力を使わないか」が重要な命題であることから(だからこそバレリーナは筋肉隆々でない),身体の機械的特性を利用して効率的な身体動作を実現するメカニズムを検討するうえでバレエの動作は格好の題材であるといえます.

このように,身体性に根差した運動制御メカニズム,身体コミュニケーションの二つの点で舞踊は興味深い研究対象です.バレエに関わる身体メカニズムは,お茶の水女子大学の水村真由美研究室の研究テーマであり,水村先生と他の構成員が連携することにより,新しい成果を生み出すことを期待しています.

武術

武術は決してただの「力技」によるものではありません.武術においては,あらゆる感覚を通じて相手の意図を読み取ろうとしたり,逆に相手に自己の意図を読み取られないような身体の遣い方をしたりするなど,「ヒト対ヒト」の身体コミュニケーションの問題を研究するうえで豊かな内容をもつ技能です.

また,武術における身体の遣い方は一般人の身体の遣い方と多くの点で異なり,その違いがいかなる理由から生まれてくるのかは興味深い問題です.というのも,仮に武術における身体の遣い方が優れたものであれば,一般人はなぜそれを日常生活の中で獲得できないかが不思議です.このような問題は,武術家と一般人の身体動作の違いを客観的なデータに基づいて解析することにより解明できる可能性があると考えています.

ステーション長の阪口豊教授は,すでに武術家と連携して,武術的な動作の特性を計測する研究を始めています.研究ステーションの設置期間中に新たな知見が得られることを期待しています.

介助動作

高齢化社会を迎えて介助作業のニーズが高まる一方で,介助動作の体型的な理解は進んでいないのが現状です.実際,看護の分野が「看護学」という学問として体系づけられているのに対して,「介助学」という学問領域は存在せず,介護士養成学校は多数あっても介助動作のメカニズムが系統的に研究されることは少なくとも日本国内ではほとんどないのが実情のようです.体系化された知識や経験をもたずに介助作業に従事して腰痛や怪我に悩まされる介護ヘルパーが多数存在するという現実は,身体に障害を負った他者を助けるために自分の身体に障害をかかえてしまうという意味で現代の大いなる矛盾であるといえます.

現時点では具体的活動は始めていませんが,今後,理学療法士,作業療法士,介護福祉士といったコメディカル分野の実践家との協同的検討が必要であると考えています.

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