鍵盤の重さ

今回のテーマはピアノの鍵盤の重さである.

ピアノの鍵盤の上に載せる重りの重さを増やしていくと,およそ50gになったところで鍵盤は下に沈む.これは,鍵盤を押し下げた状態を維持するのに50g重(MKSA単位系でいえば0.5N)の力が必要であることを示している.ちなみに,きちんとしたピアノでは,鍵盤の重さは音域ごとに調整されていて,低音域の鍵盤ではもっと大きな力をかけないと鍵盤は下がらないそうである.

この50g重(0.5N)という力の大きさは,鍵盤を押し下げたままの状態を維持するのに必要な力の大きさであって,演奏中に鍵盤を叩くときの力の大きさではない.鍵盤を叩く瞬間の力の大きさは実験的に計測されていて,そのピーク値は音量に応じて3Nから60Nであることがわかっている.

ほかの記事に書いたように,ピアノは打鍵することで音がいったん出てしまえば,そのあと鍵盤にどんな力をかけても音は変わらない.打鍵の瞬間に鍵盤にかける力は鍵盤やハンマの動く速さに影響を与えるので音を変えるうえで重要な意味があるが,そのあとは音が途切れないように鍵盤を押し下げてさえいればよい.それでは,ピアニストは音を伸ばしているときにどれくらいの力をかけているのであろうか?これを実験的に調べた研究がある.この研究では,ある指である鍵盤を押さえ続けながら別の指を使ってほかの鍵盤を叩いて音を鳴らすという(ハノンやコルトーの練習曲にあるような)やや特殊な状況を題材にしているが,音を伸ばしているあいだに鍵盤にかかっている力の大きさは専門家ピアニストとアマチュアピアニストで大きく異なっていた.図はこの論文から切り抜いた実験データを示すグラフである.上の段b)は中指で押さえ続けている鍵盤にかかっている力,下の段c)は薬指で音を鳴らしている鍵盤にかかっている力の大きさの時間変化を示している.いずれの図においても実線が専門家ピアニスト,点線はアマチュアピアニストのデータを表している.

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図c)からわかるように,専門家ピアニストでは,薬指で音を鳴らした直後に鍵盤を抑える力は1N(100g重)程度まで落ちているのに対して,アマチュアピアニストでは,その後も3N(300g重)程度で維持されている(ちなみに,この論文によれば,この実験装置では2N以下の力は正確には測れないそうなので,1Nというのは正確な値ではない).また,図b)を見れば,専門家ピアニストは中指で押さえ続けている鍵盤にやはり1N程度の力しかかけていない一方で,アマチュアピアニストでは数Nの大きさの力がかかっていて,さらにほかの指で鍵盤を叩く動作に依存して時間的に大きく変化していることがわかる(いうまでもないことであるが,アマチュアピアニストはだれでもそうなっているというわけではなく,中には専門家ピアニストのように弾ける上手な人もいるはずである).この実験結果は,専門家ピアニストがそれぞれの指を独立して使えること,鍵盤を叩いたあとはすぐに力を緩めて鍵盤を押さえ続けていることを示している.上で述べたように鍵盤を押し下げた状態で維持するのに必要な力が0.5N(50g重)程度であることを考えると,1N程度の力で鍵盤を押さえているという事実は,若干の余裕をみつつも必要最小限の力しか鍵盤にかけていないことを意味している.

そんなことから,この実験結果は,専門家ピアニストは(筋の疲労を最小化するため)不要な時は筋を使わずに脱力していることを示唆する知見として解釈されることが多い.ただ,ここでもう少し考えてみると,「鍵盤にちょうど1Nの力をかけた状態を維持すること」はピアニストにとって楽な状態なのであろうか,という疑問がもたげてくる.

一般に,人間の(片方の)手の重さは体重のおよそ1%,腕全体の重さは体重の6%程度であることが知られている(興味のある人はこちらのデータベースを参照してほしい).体重が50 Kgであれば,手の質量は500 g,腕の重さは3 Kgということになるから,手首を脱力して手の重さをすべて鍵盤にかけたとすれば,鍵盤には5N(500g重)の力がかかることになる(腕全体の重さをかければ30Nになる).したがって,一つの鍵盤を押さえるときその鍵盤に1N(100g重)の力をかけるというのは,手首を脱力して手や腕の重さをすべてピアノに預けた状態ではないことがわかる.それでは,この1Nという大きさにはどういう意味があるのであろうか?

ここで簡単な実験をやってみる.机に向かって座り,前腕を上に持ち上げる(できれば,手のひらを上に向けた状態で肘をまげて前腕をあげ,そのあとで手のひらを返すのがよい).前腕を水平に保った状態で手首を脱力させれば,手はだらりと下に下がる.この姿勢,確かに手首は力が抜けて楽であるが,前腕の上部(肘に近い部分)に何か緊張感(つっぱり感,「滞り」)が残り,同じ姿勢を続けていたくない感じがする.この状態からゆっくりと前腕を下して,指先が机の上に軽く触れる状態を作る.そうすると,さきほど感じた前腕の緊張感がなくなり,腕全体が楽になる.ここで,指先が机の上にふれたまま手首の高さを調節して腕が最も楽になる姿勢を探してみる.そして,最も楽になった姿勢になったときに机の上にかかっている力の大きさを測ってみると,これがおよそ1N程度になるのである.面白いと思って,何人かの学生に同じことを試してもらったところ,0.6~1.5N(60~150g重)の範囲に収まった.本当かと思う人は,台所にある秤(デジタルキッチンスケールが便利)を使って自分で試してみるとよい.目をつぶってゆっくりと秤の上に指をおき一番楽になるところを探す.楽な姿勢が見つかったところで目をあけて秤の数値を読み取ってみると,どれくらいの数値になるであろうか?もし100gになっていれば,秤にかかっている力は1Nということになる.

このように考えると,ピアノの鍵盤の重さが50g重(0.5N)程度に設定されている理由は,楽な姿勢で鍵盤を押し続けることができるということがあるのかもしれない(もちろん,現実には,複数の鍵盤を同時に押し下げておくこともあるので,話はそんなに単純ではない).

しかし,この議論,実は逆の見方から解釈することもできる(というよりも,むしろ,ちまたでは逆方向の議論の方をよく耳にする).それは,「鍵盤の重さを50g重に設定したのは,鍵盤に軽く触れても誤って鍵盤を押し下げてしまうことがないようにするためだ」という議論である.実際にピアニストは,押し込まないけれども鍵盤に軽く触れていることがよくあるので,このとき,鍵盤にかかる力が0.5N(50g重)を超えてしまうと鍵盤が下がって音が出てしまうことになる.そういうことがないように,「ピアノの鍵盤はわざと重くしてあるのだ」という話である(実際,電子ピアノのように鍵盤が軽いと弾きにくくなるという話はよく聞く).

さて,どちらの解釈が正しいのかという話になるところであるが,おそらくどちらも正しいのであろう.大事なことは,楽な姿勢で鍵盤に触れているときに鍵盤にかかる力の大きさと,鍵盤を押し下げるのに必要な力の大きさがほぼ同程度であるという事実である.これは,鍵盤を押し下げた状態を維持するか,押し下げずに軽く触れているかというコントロールが,手の姿勢を楽に維持できる状態付近で行なえることを意味している.つまり,「誤って押し下げないようしてある」「押し下げた状態が楽に保てるようにしてある」のいずれかという話ではなくて,どちらを選択にするにしても楽な状態に近いということである.そういう意味で,「鍵盤の重さが50g重である」という設定は,ピアニストが鍵盤のコントロールを楽な状態で行なう上で絶妙な設定になっているといえるのではないだろうか.


Last-modified: 2019-10-22 (火) 11:13:15