サーバ引っ越し後ブログの方に記事を投稿することにしました ピアノのはなしピアノについてこのようなメモを残すことは当初は想定していなかったのであるが,ヴァイオリンと並行してピアノの練習も続けている.といっても,ピアノに向かうのは週に高々1時間程度であるし,先生について習っているわけでもないので,「そんなもの,練習とは呼べない」といわれても反論できるものではない. ピアノを習った経験がある人は,ヴァイオリンを習った経験のある人に比べるとはるかに人数が多く,脳研究者の中にもコンクール入賞クラスの腕前をもった方が少なからずいる.そういった上級者の方々と比べると私の腕前は恥ずかしい限りであるが,それでもおそらく「中級者」と呼べる程度のスキルはあるだろうと思っている. ちなみに,自分は(おそらく)5歳のときに先生について習い始め,小学校4年生でやめたので,先生についてピアノを習っていたのは6年間だけである.この6年間という時間は長いようで短い(というのも,私がヴァイオリンを習い始めてから(平成30年の時点で)すでに6年たってしまっている).バイエルから始めて,チェルニーの100番,30番を終え,40番をあと数曲残したところまで進んだ.ブルクミューラーも弾いたし,ソナチネも1番,4番などのほか,モーツァルト(14番)やベートーヴェン(15番)の作品も弾いた記憶がある.最後の発表会ではショパンの夜想曲(作品9-2)を弾き,やめる直前に弾いていたのはウェーバーの「舞踏への招待」だったと思う.今から思えばなんとも中途半端なレベルで,あと数年続けて手が大きくなる中学生のあいだに上級者向けの曲まで弾けるようになっていれば,ピアノ演奏技能に対する理解もいまとはずいぶん違っていただろうと思う.ただ,中学・高校時代はひたすら電子工作に熱中していた. ただ,先生について習うのを止めたあとも間欠的にピアノに向かう機会があり(特に,大学生のあいだは合唱団に所属していたので),それなりに指も動いていたので,ある程度のスキルは維持できていたようである.ただ,弾くといっても譜面通りに弾くだけのことで,じっくりと曲を仕上げるような完成度を高める練習はまったくしていなかった.それだけに,音の微妙なコントロールについてはほとんどスキルがないといってよい. 最近になって,演奏家として活動しているピアニストの方々とお話しする機会が増え,ピアノのスキルについていろいろと議論するようになって,それを試したくなって新しい曲に挑戦したり,鍵盤の叩き方について試行錯誤したりすることが増えてきた.一方で,ピアニストと話していて,自分がまったく理解できないことがたくさんあることに気づかされる(例えば,ピアノの個体の違いを吸収することや,音のコントロール方法,ソフトペダル(ウナコルダ)の遣い方など). ピアニストのいっていることを自分自身で理解できるようになるには,やはり自分がそれらの感覚を実感できる程度に上達することが不可欠である.このようなこともあって,最近は,一時期に比べてピアノに向かう時間が長くなってきた.楽器に向かう際の問題意識がはっきりしてくれば,その分だけ新しい「気づき」が生まれてくるし,新しい研究ネタも生まれてくる(まさに「一人称研究」).そして,(たとえ週に1時間しか弾かなくても)少しずつ技能も上達しているように思える. 面白いことに,上級レベルの人には,私のような中級者が感じる「ここがうまく弾けないのはなぜだろう」「どうしたらうまく弾けるようになるのだろう」という問題意識があまり生じないようである.これは,上級者にとって「弾けるのが当たり前のこと」で,「何も考えなくてもできてしまう」ためか,(頭で客観的に考えない)幼少期に基本動作を身に着けてしまっていて動作のプロセスを具体的に考えることが少ないためかもしれない.また,上級者の方々が考えている(練習している)のはメカニズムレベルのことではなくて,もっと音楽的な内容であるのであろう.このように考えると,上級者の先生方よりも,私のような中級者の方が「ピアノ演奏のメカニズム」や「ピアノ演奏習得のためのヒント」を考えるには適しているのかもしれない. そのようなことを考える中でのさまざまな「気づき」について,エッセイ風に書いておきたい.ピアノのことを知らなくてもわかるように配慮しているつもりなので,ピアノを弾いたことがない人でも,その様子を想像しながら読んでもらえればよい. なお,この分野の第一人者である古屋さんがPTNAのページに「ピアニストのための脳と身体の教科書」という連載記事をまとめているので,ぜひそちらも読んでいただきたいと思う.私の記事の内容には古屋さんの記事とかぶっている部分があるかもしれないが,議論の進め方や着眼点はかなり違うので,両方あわせて読んでもらうとよい. 項目 |